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「昔はプレイヤーが主役、今は観客」ゲーム“ムービー化”論がまた燃えてる件

投稿: 2026/07/02更新: 2026/07/02by 編集部3分で読めます
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気づけばコントローラー置いてる時間、増えてない?

最近また流れてきてるフレーズがある。「昔のゲームはプレイヤーが主人公、今のゲームはプレイヤーはただの観客」ってやつ。要は、ムービーやイベントや会話がどんどん長くなって、自分で操作してる時間より“見せられてる”時間のほうが長く感じる——そんな体感を、うまいこと一言にまとめた表現なんだにゃ。

言われてみると心当たりがある人、多いと思う。ボスを倒した直後に始まる長いムービー、勝手に進んでいく会話、通路をゆっくり歩かされるだけの区間。そういうのが積み重なると、「自分がやってる」より「物語を眺めてる」気分が勝ってくる。

“観客っぽさ”はどこから来るのか

この話でよく槍玉に挙がるのが、いわゆる「ムービーゲー」的な作りかた。

  • 見せ場が全部ムービーで、操作は挟まらない
  • ボタン連打で進むだけの演出シーン(いわゆるQTE)
  • 会話や移動の途中で、こまめに手を止めさせられる

ここが強すぎると、「せっかくゲームなのに、操作させてくれよ」という不満につながる。プレイヤーが求めてるのは“自分で切り抜けた手応え”なのに、そこを演出が肩代わりしちゃう、という構図だにゃ。

でもこれ、実はかなり昔からある話

面白いのは、この“映像で魅せたい”という欲、別に最近始まったものじゃないってこと。

ゲームがディスク媒体になった頃から、作り手はずっと映画やアニメみたいな演出に憧れてきた。ムービーが流れるだけで「うわ、ゲーム機でこんな映像が!」と感動した時代もある。裏を返せば、昔のRPGだって長い会話ウィンドウや一枚絵の見せ場で“操作しない時間”をたっぷり作っていたわけで。

だから「昔=全部自由、今=ぜんぶ観客」ときれいに割り切れるものでもない。演出で語りたい気持ちと、操作で遊ばせたい気持ちのせめぎ合いは、ずっと続いてきたテーマなんだにゃ。

“映画的”を隠さない路線もある

その象徴みたいな存在が、小島監督の作品。映像や物語をガッツリ見せる作りで、新作が出るたびにこの議論が再燃する。ためしに最新作のトレーラーを置いておくにゃ。

▲『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』ファイナル・トレーラー(出典:PlayStation公式)

これを「ゲームで映画が撮れる時代になった」と歓迎する人もいれば、「映画が観たいわけじゃない、ゲームがやりたい」と言う人もいる。どっちの気持ちもわかるのがこの話の厄介なところ。

作り手のほうも、ちゃんと手は打ってる

一方で、遊ぶ側に主導権を返す工夫も広がってる。イベントの会話送りやスキップが当たり前に用意されるようになったし、視点や難易度をプレイヤー側で選べるタイトルも増えた。

つまり流れとしては、「観客になるか、プレイヤーでい続けるか」を遊ぶ側が選べる方向に寄ってきてる。全員に同じテンポを押し付けるより、そのほうが平和かもしれないにゃ。

たぶん本質は“テンポ”と“やった感”

こうして見ると、これは「昔 vs 今」というより、操作の主導権を渡してくれるか/リズムを止めすぎないかの話に近い。

長いムービーそのものが悪いんじゃなくて、いいところで手を止められるのがしんどい。名作と呼ばれるやつは、たいてい見せ場と操作の切り替えがうまくて、“見せられてる”のに“やってる”感が消えない。結局そのバランス調整こそが、ゲームづくりの一番むずかしくて面白いところなのかもしれないにゃ。

出典

  • 『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』ファイナル・トレーラー / PlayStation公式YouTube:https://www.youtube.com/watch?v=__lLkYY34NA

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